思い出すのはあの夏の日、唯青い青い空が届きそうなくらい空が低くて雲が浮かぶ
木の上の俺に向かって手を振る赤い人
俺忍んでるんだけどな、手振ったらばれるんだけどな
何度も注意したはずなのにあっさり忘れてるその人に苦笑いをしながら小さく手を振り返す
結局のところこの人に甘い自分が悪いのだ
屋敷にいる時もこの季節には庭をはしゃぎまわりながら蝉を捕まえていた
燦々と照る太陽の下で笑うこの人がまぶしかった、己はその太陽の下を歩けない、憧れを抱いて。
俺は唯、此方に向かって手を振るこの人に小さく手を振り返す
蝉の鳴声は俺の耳の近くで響き頭の隅々に浸透する、それは耳障りでありながらどこか泣きたくなるようなもので
その声はどうしても屋敷でのあの人の姿を懐古するものだ、
己の憧れであり続けた小さな子供は笑顔で此方を見る、今も昔と変わらぬ顔で、
ただもうきっとあの屋敷で子の笑顔を見る事はきっと叶わないのだろう、嫌というほど澄み渡った青いこの世界こそが、この人の終わりだと知っている
赤い鉢巻を靡かせる後姿は一人で泣いていたあの頃よりも何倍も大きくなって己と同等なほどだと思える
何度もこの後姿を見て来たけれど今日で最後なのだと思うと心臓がぎゅうと締め付けられて目頭が熱くなってくる
泣く?まさか、この俺が?泣くという行為は己の自己満足心を満たすだけで唯唯無駄な行為で或る、其の様な無駄な事を俺がする筈が無い
耳元で泣く蝉の声が耳障りだ、視界がぶれて赤い背中が小さくなっている様な気がした、
振り向いて幼子の声で俺の名前を呼ぶ、その顔は晴れ晴れとした笑みを浮かべていて
「佐助、何を泣いておる」
「泣いてなんかいないですよダンナ、大丈夫ですから放って置いて」
「何が泣いとらんだ馬鹿が、俺の上に降ってきているこれは何だ」
「知りませんよ、雨でしょ雨。大体アンタこんなとこにいていいんですか」
「まずいな」
「だったら戻りなよ俺なんかかまわないでいいから」
「嫌だ、一人では帰れん。んでやっぱり佐助は俺の傍にいろ」
木の下にまでいつの間にか移動していたダンナは笑って此方に手を伸ばす、
その手は白くて傷だらけで昔みたいに紅葉のような可愛らしいものではなかったけれど、俺はあの掌が誰よりも暖かい事を知っている
誰よりも長くあんたを見て来たんだからそんなこととっくの昔に分かってる
ぼやけてよく見えない笑顔だって俺に初めて向けたその顔と同じだ、あの時俺に眩しい憧れを抱かせたその表情と同じだ
嗚呼、今さら思い出すなど馬鹿の極みだ、もっと見ておけば良かった、いつかこんな日が来るなんて分かっていたのに
膨らみ続ける後悔は今まで閉めきっていた俺の感情の扉を開けさせてぐちゃぐちゃしたものが腹の中を回り心臓を突き刺して痛みを引き起こす
「佐助、」
小さく呟かれた声は震えていて、思わず飛び降りて抱きしめた、少し小さな、それでもしなやかな肢体が愛おしい
体裁なんて考えずに抱きしめた俺の顔を見られなかったことは最大の幸運だったに違いない、きっとあまりにも情けない顔をしている
いつもは暖かい体はこれからの事を考えているのか震え、冷え切っている、肩に当てられた部分がじんわりと湿り気を帯びていく
「おれは、」
言葉を切って、顔を勢い良く上げた、その顔にはいつもよりも少しだけ不器用な笑みが浮かんでいる
口元は引きつったような笑み、眼元にはキラキラした涙が浮かんでいるけれども、
それは俺の中で一番美しく見えたのだ、ただのぐしゃぐしゃな顔なのに、液体の膜が滑り落ちていく、
液体となったそれは乾いた地面をぽつりと濡らして染みて、やがて乾いて、なくなった
頬に触れて次から次へと零れ落ちるそれを冷たく震える手が拭っていく、その手に縋って大声を上げて泣きたくなる、恥も外聞も殴り棄てて、
思わず洩れそうになった声を押し殺せば喉の奥でぐ、と低い声が出た、
「おれは、おまえがいてくれて、うれしくおもうぞ、さすけ」
馬鹿かあんた、今生の別れみたいに、なんでそんなこと言うんだ。
いっそのこと死にたくないと縋ってくれれば良かったんだそしたら俺がどこまでも遠くに連れて逃げるのに、なんて笑うんだ、
あんたが笑うんなら俺だって笑わなきゃいけないって知ってるんだろ、なんて酷い人だ、あんたは
いつだってそうだ、自分に都合のいい事ばっか言って全部俺に後を押し付けるんだ。大体そんなこと言われたら返す言葉は一つしかない、
逃げて生きてよ、なんて言えないんだもう、この人は、此処で終わるつもりなんだから、
「まことに、光栄と存じます、よ」
(最期に、俺の中の最高の笑顔を、愛しの貴方へ)